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中世ヨーロッパの生活呪文
(増補改訂版) 第1回
「中世イングランドの呪文詩」
テンプラソバ
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◇はじめに
おはようございます!
中世ヨーロッパと西洋風ファンタジーが大好きなテンプラソバと申します。
これから中世ヨーロッパの生活に密着した呪文について、何回かに分けて紹介していきます。
これは、中世に書かれた医学書などに記載され現代まで伝わるもので、フィクションではなく実際に使われていた可能性が高い、「本物」の呪文です!
舞台は、中世前半のイングランドのとある田舎の領主が治める村です。
ちょっとしたドラマを挟みつつ、当時の状況を解説していきます。
(ドラマの方は、設定も含めて私がフィクションとして書いたものです)
今回は、呪文詩とは何かについて紹介しましょう!
◆第1幕「エドリック」
■エドリックの憂鬱
エドリック・ハマーは、頭をかきながらため息をついた。
村の牛が、また居なくなったというのだ。
エドリックは、従者(セイン)である。
従者(セイン)とは、王に仕えハマートンというこの領地を代々守護する小領主である。
父ロドルフより、この領地と従者(セイン)の位を受け継ぎ5年がすぎた。
ようやく仕事に慣れてきた頃、村の宝といえる牛が立て続けにいなくなる事件が起きているのだ。
「牛すら逃げ出すハマートン」との不名誉なうわさが、流れでもしたら……
■ことのあらまし
そんなことを考えていたエドリックが、ふと我に返る。
彼は今自分の館で、牛の飼い主から事情を聴いているところだった。
牛の飼い主の名は、ウィゴットという。
彼は、物思いにふけっていたエドリックに「私はこれから……一体どうすれば?」と聞く。
エドリックが、話をまとめる。
「ウィゴットよ。
君の使用人が、牛の番を交代するほんのひと時の間に、牛1頭がいなくなった。
既に日はのぼり、朝したくの時間のため、番人以外で外に居たものはいなかった。
さりとて番人に、はかりごとで牛を隠す知恵も度胸も持ち合わせていない。
ただ牛が1頭いきなり消え、どこにも見つからない。
まとめると、そういう事に相違ないな?」
恐縮したウィゴットは、「そのとおりでございます。」と直立したまま両手を胸で握りつつ頭を下げる。
そばにいるウィゴットの従兄メイソンが、不安げなウィゴットに寄り添う。
朝方に牛の鼻息や鳴き声などを近所のメイソンが聴いており、居なくなったのは今朝で間違いないとのことだった。
■頼るべき者
そこに家人のエグビンが、息を切らしながら走ってきた。
彼は10人ほどを指揮し牛の探索をしていたのだ。
エドリックは期待の目でみつめるが、エグビンは残念そうな顔でかぶりをふる。
そうするとエドリックの頭に、とある人物の顔が浮かぶ。
「今回も、ハードウルフの力を借りねばなるまい。」
そうしてエドリックは、ハードウルフのいる場所に向かうことにした。
彼は、キリスト教の司祭でありながら、古の呪文詩も使う不思議な老人なのだ……
◆解説編1
■中世イングランド
現在イギリスと呼ばれる国の本島グレート・ブリテン島は、北方のスコットランド、西方のウェールズ、そしてイングランドという3つの国で構成されています。
今回のシリーズ「中世ヨーロッパの生活呪文」の舞台は、中世のイングランドです。
中世のイングランドは、10世紀頃まではアングロ・サクソン人と呼ばれる人々の、多数の王国がひしめく「七王国」と呼ばれる時代でした。
七王国間で争いつつ、ヴァイキングや大陸の様々な侵入者達との戦いが続く中で、ようやく「イングランド王国」という形でまとまろうとしていました。
■従士(セイン)とは?
従士(セイン)はこのような状況で生まれた「戦う社会階層」で、軍事と地域統治で活躍しました。
七王国の諸王やイングランドの王は、自治と保護を名目に家臣の従士(セイン)に土地を分け与え、従士(セイン)の家の名から土地の名前をつけました。
例えば「ウルフリック家の領地」は「ウラートン」、「ハマー家の所領」は「ハマートン」といった要領で、領地の名前がそれぞれ決まっていったのです。
■とても大事な財産「牛」
当時の固い土地を耕し麦を植えるには、土を深く切り裂くのに十分な重さのある大きな道具「鋤(すき)」を利用していました。
丈夫な木製の腕の先に金属の歯をつけ、車輪で転がしつつ土を切り裂きやわらかい畝(うね)を作ります。
その重さはとても人間が引けるものではなく、力のある牛や馬などを利用していました。
現代のトラクターのような存在かもしれません。
牛は、労働力になる一方で、食肉にもなる貴重な財産でした。
■キリスト教と古の伝統
当時キリスト教の布教はある程度進んでいましたが、社会を規制するまでの大きな力はまだ持っていませんでした。
そのため、アングロ・サクソン人の古い伝統も、数多く残ってました。
彼らのルーツである、ゲルマン人の伝承とオーディンやトールなど神々の伝説、魔術などが社会の中で息づいていたのです。
■呪文詩
当時は、病気やケガ、災いなどは、悪い超自然的存在が起こすと考えられていました。
そのため、薬草や薬、そして呪文が、悪しきものへの対抗手段となる事が多かったようです。
それらの呪文は、古代の伝統にのっとり韻を踏む形で書かれていることから「呪文詩」と呼ばれています。
◆第2幕「ハードウルフ」
■司祭にして医師(リーチ)
エドリックは、ハマー家の館を出て教会に向かった。
教会の裏手の薬草園で、ハードウルフは作業中だった。
生垣の野バラが咲き誇り園内に甘い香りを放つ中、エドリックはハードウルフに挨拶をした。
「司祭殿、力を借りに来た。」
庭園整備用の粗末な僧衣を着た老人が立ち上がり、挨拶を返す。
僧衣のフードを外すと、中から長い銀髪が印象的な壮年の男性の顔が出てきた。
「エドリックさま、医師(リーチ)と呼んでくだされといつも申していますのに。」
そう不満をもらすものの、表情はやさしい笑顔だ。
「司祭殿には違いないからな」と言いつつ、エドリックはさっそくハードウルフに相談を始めた。
簡潔に「事件」の状況を述べたあと助力を依頼する。
「そこでハードウルフよ。頼みがあるのだが。例のあの……」
エドリックが言いよどむと、ハードウルフが後を続ける。
「例の『牛を探す』呪文詩を使えと、そうおっしゃりたいのですな。」
「そうだ……やってくれるな?」
顎髭をさすりながら思案しつつ、ハードウルフは答える。
「ウィゴットの牛は前にも迷子になりましたな。
呪文詩は、その時に1度使いました。」
「1度使うともう使えないのか?」
「そうではありませんが、同じ事を繰り返す事が果たして良いのか。
できれば根本的な解決をし、二度と同じ困りごとが起きぬようにしたいのです。
そこでより強力な呪文詩を施したいのですが、それがちょっと……」
「ちょっと?」
■リーチ・ブック
「まあ、お見せした方が早いでしょう。」
そう言ってハードウルフは教会の近くに建てられた木造の小屋に案内する。
そこは患者を治療し、数々の薬物を研究する場所でもある。
扉を開けると、天井から吊るされたさまざまな色彩の薬草がひしめきあい、部屋に入るには屈む必要があった。
いくつかある作業台には、乳鉢やおろし器、薬草の煮出しに使う鍋などがある。
部屋の空気には薬草や薬品のあらゆるにおいがまざり、エドリックはむせそうになった。
奥の方の作業台には、たくさんの写本が広げられている。
ハードウルフはその写本にエドリックを案内した。
「これらが、我が秘伝の書の数々ですぞ。
あらゆる病や怪我を治す方法と、色んな事に効くまじないが載っています。」
その中から、1冊の写本を取り出した。
■牛の守護者
「実は『いなくなった牛を探す呪文詩』は全部で三種類あります。
いずれも、盗まれたものを探す内容となっています。」
そういってハードウルフは、写本のページをめくる。
「問題なのは、2つ目の呪文のこの箇所です。」
ハードウルフは、ある個所を指差しつつ「ガールムンド」と書いてあると述べた。
エドリックは、首をかしげる。
「ガールムンド?」
「さよう『ガールムンド』です。
彼は、牛の守護者とされている、力ある者です。
2番目の呪文詩はこの者の力を借りることで、より強力になります。
さらに、盗人に災いをもたらす力がございます。
もし盗人がこの村の者の場合、すなわちこの村にも災いが起きる事となりますが、それでもよろしいですか?」
エドリックは即答できず考え込んだ。
~次回に続く~
◆解説編2
■医者(リーチ)とは
この時代、医者はリーチと呼ばれていました。
医者と言っても現代のように患者の治療に専任することはなく、修道士など聖職者と兼任することがほとんどでした。
聖職者であることから、病やケガのみならず、信者のあらゆる相談ごとにも対応していました。
相談内容は、もめごとや飢饉、心の相談、冠婚葬祭などなど多彩です。
当時は、キリスト教と古代の神々の伝承が同居する時代であり、民族のルーツに深くかかわるアングロ・サクソンの神々、英雄、そして呪文詩などに聖職者が言及する事は必然だったと考えられます。
当時のキリスト教は、その地域ごとに独自に宗教を広め管理していたため、後年より緩い時代でした。
■医者と蛭(ヒル)の意味を持つリーチ
リーチの綴りは”Leech”です。
英語に詳しい方は、血を吸う生物「蛭(ヒル)」の意味であるとご存じでしょう。
実は、”Leech”の蛭という意味は、11世紀以降に使われていた中世の英語*1から発生しているようです。
10世紀頃は、主に医者という意味で使われていたようです。
*1 中世の英語
現代の英語は、西暦1500年頃からのものです。
それ以前は中世の英語が使われていました。
中世の英語には大きく二種類あり、西暦500年から1050年頃まで利用されていた「古英語」と西暦1050年から1500年頃まで利用されていた「中英語」となります。
■中世前半のイングランドの医学
中世の医学といえば、瀉血(しゃけつ)という血を抜く行為が多かったようです。
しかし、瀉血が盛んになったのは、アラビア医学の書物が盛んに翻訳されだした11世紀以降と考えられます。(リーチに蛭という意味が発生したのと似た時期と思われます)
10世紀以前のイングランドの医学では、体内の悪しき者を体外に追い出すため、薬草などから内服薬や軟膏を作って処方したり、時には呪文詩を使うこともあったようです。
医者の数も少なく、医療は基本的に高価であり、何か大けがや病にかかった時は死を意識するような時代でした。
■12の呪文詩
当時の本は、作るのも大変でとても高価でした。
9世紀頃、アルフレッド大王という王が、文芸復興の施策として大陸から様々な学者を呼び、様々な書籍を英語に訳したり、編纂するといった偉業を成し遂げています。
その影響により作成された本の一つに「いなくなった牛のための呪文詩」が記載されています。
「ラクヌンガ」「ボールドのリーチブック」という当時の有名な医療系写本をはじめ、複数の写本に合わせて12の呪文詩が記載され、今日まで残っています。
12の呪文詩は、薬草の力増幅、痛みや様々な病への対抗、出産促進など医療に関するものが多いです。
また物語に登場する牛を捜索する呪文詩の他に、蜜蜂を定着させる、畑の地力を回復する、旅の安全を祈るなど、医療以外の様々な生活の悩みに対応した呪文詩がみられます。
他の呪文詩については、後の機会にてご紹介いたします。
◇次回予告
リスクと天秤にかけ決断するエドリック
第2の呪文詩の儀式を進めるハードウルフ
ガールムンドの力とその正体とは?!
中世ヨーロッパの生活呪文 第2回「いなくなった牛を探す呪文詩」
ご期待ください!
◆参考文献
唐沢一友(著)アングロ・サクソン文学史:韻文編 (横浜市立大学叢書―シーガルブックス, 東信社, 2004年)
吉見昭徳(著)古英語詩を読む ~ルーン詩からベーオウルフへ~(春風社,2008年)
ウェンディ・デイヴィス/編 鶴島博和/監訳 オックスフォード ブリテン諸島の歴史 3 ヴァイキングからノルマン人へ(慶應義塾大学出版会,2015年)