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中世ヨーロッパの生活呪文
(増補改訂版)第5回
「旅立ちの呪文詩」
テンプラソバ
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◇はじめに
おはようございます!
中世ヨーロッパと西洋風ファンタジーが大好きなテンプラソバです。
中世ヨーロッパの生活に密着した呪文についてのコラムの第5回「旅立ちの呪文詩」です。
紹介する呪文は、中世に書かれた医学書などに記載され現代まで伝わるもので、フィクションではなく実際に使われていた可能性が高い、ある意味「本物」の呪文です!
※注意
呪文や歴史背景などに関する内容は参考文献を元に書いています。
参考文献は記事の最後をご覧ください。
ドラマパートは私が創作したフィクションです。
■ドラマパート前回のあらすじ
10世紀、中世イングランドのとある地方「ハマートン」で起きた牛泥棒事件。
牛泥棒メイソンを勾留した小屋は夜半に焼け落ち、跡から牛小屋番のダーシーと謎のブローチが見つかる。
リーチ(医者)のハードウルフによる「九つの薬草の呪文詩」での懸命な治療により、息も絶え絶えだったダーシーは命を取り留める。
ダーシーからの証言により、メイソンが隣の領地ブラートンと通じ良からぬことを企んでいる事を、ハマートン領主エドリック・ハマーは知る。
彼は、隣の領地ブラートンの領主ブラー家に事の真偽を確かめようとするのだった。
■登場人物
エドリック・ハマー ハマートンの領主、若く妊娠中の妻がいる
ハードウルフ ハマートンの司祭でリーチ(医師)、呪文詩を駆使する
エドマ・ハマー エドリックの妻、お腹の子がもうすぐ産まれる
ロドルフ・ハマー エドリックの父。ハマートンの先代領主
ミルドイナ・ハマー エドリックの母
エグビン ハマー家の家人、エドリックが頼りにする男
メイソン ハマートンで牛泥棒など良からぬ事を企む者
ウィゴット ハマートンの農民で牛泥棒の被害者、メイソンの従兄弟
◆「ヤコブの梯子」
■支度
雨がしとしとと降っていた。
雨水がかからない軒先で、エドリックは旅支度をしていた。
エグビンがエドリックに鎖帷子(くさりかたびら)を着せる。
エドリックは両手を上げた格好で前かがみになり、手の先からエグビンが鎖帷子を通す。
体の中ほどまで通ったところで、エドリックは直立してジャンプしながら帷子を下にひきつつ体になじませる。
そして、エグビンが持ってきた皮ベルトを締め、ハマー家を象徴する山羊の紋章を縫い付けた黒い大きなマントを着ると、いかにも戦士の風情となった。
雨交じりの風は容赦なく体温を奪っていくから、防寒も大事だ。
鎖帷子の下には、キルトでできた厚手の衣装を着ている。
館の扉が開き、エドマが顔を出した。
「支度はできたのかしら?」
エドマは体が冷えないように、もこもこと膨らんだように見えるキルトのガウンを着込んでいる。
その状態で両手をさしのべ、エドリックを抱きよせる。
「準備万端だよ」
抱きついたエドマの背中を優しくたたきながら、エドリックはそうつぶやく。
「そうだ、あなた!お願いがあるのよ!
ついでに寄り道して、エンフリスさん、アガタさん、それから村はずれのメアリー婆さんの様子も確かめてね!
ここ2週間姿を見ないから心配で……」
いずれも、ハードウルフの診療所の常連だったご老人だが、最近は寒くなりなかなか家から出てこないらしい。
「まてまて、俺は往診にいくんじゃないんだぞ?」
エドリックは、両手を広げて見せ困った表情を浮かべる。
「いいじゃない!これも領主としての務めでしょ?」
そう言うエドマの顔には、いたずらそうな笑みが浮かんでいる。
そのような軽口の応酬をしていると、雨がやみ、あたりがしんと静かになった。
笑みを浮かべたエドマの目にはわずかに憂いがみられる。
彼女は、努めて明るくふるまっているのだ。
昨晩、あのような話を聞かされて不安に思わないわけがない。
■家族会議
昨晩のことである。
「これは誘い出しの罠だ。行ってはならん!」
珍しく語気を強めたのは、エドリックの父であるロドルフ・ハマーだ。
「しかし、これだけの証拠では、裁判に訴えても退けられてしまいます」
机の上の魚が彫られた銀のブローチを指さしながら、エドリックが反論する。
テーブルの周りをイライラしながら歩きつつ、ロドルフが反論する。
「メイソン!奴がこの件にかかわってるんだぞ?!
ウィゴットの話によると、メイソンは若い頃どこかに放蕩していた時期があったという。
その時にブラー家とつながりができたのではないのか?
そして、我らハマー家の不名誉な噂が聞こえてくるようになったのも、奴が村に戻ってからだ。
奴は領民が不安に思うような噂をことさらに流していたのだ!
しかも奴の周囲で色々と物がなくなることが多かったと聞いている!
だが毎回決定的な証拠がなく、その点を追求できなかったとも!」
ロドルフは、紅潮した顔で両手を大きく振りかぶりながら、エドリックに迫りながら訴える。
「抜け目のない男ということでしょうね」
冷静にエドリックが切り返す。
「その『抜け目のない男』が、わざわざこんな『証拠』をおいて消えた!
これが罠でなくなんだというのだ!」
ロドルフは思わず拳を机に叩きつける。
すっかり熱くなったロドルフを、母ミルドイナがなだめ座るよううながす。
ロドルフはエールを一飲みし、乾いた喉を湿らせて席に座る。
その様子を見ていたエドリックが固い意志で述べる。
「だからこそブラー家の態度を見極めたいのです。
メイソンの企みがブラー家の意志によるものか、または愚かにも我らハマー家とブラー家を仲たがいさせようと扇動しているだけなのか?。
もし後者であれば、ハマー家にブラー家と争うつもりはないと、誤解を解く必要があるんです!」
そして、エドリックは、剣の束に手をそえて、静かに次の事を言った。
「だからブラートンに私はいくのです!
どのみちこのままでは、我らはブラー家と戦う事になりかねない……」
何かを悟ったエドマが血相を変えた顔でエドリックに問う。
「まさか……襲われる可能性が高いとわかってて行くの?!」
エドリックは毅然とした顔で返す。
「必ず生きて戻る」
頭を抱えるロドルフ。
血の気が引いた真っ青な顔で身を縮こまらせていくエドマ
母のミルドイナは、そんな彼女を抱いて慰めつつ珍しく、大きな声でエドリックを叱る。
「身重の妻になんて事を言うの!!」
家族全員が沈黙し、暖炉の薪がはぜる音だけがする。
家族全員わかっていたのだ。
こうなったエドリックは、制止を聞かず必ず実行すると。
■「我が盾となれ」
上空の強い風が雨雲を押し流し、暗い空が少しだけ明るくなってきた。
エドリックもエドマも互いに言葉をかけられないまま抱き合っていた。
物思いにふけりつつ夫婦が抱き合う中、気まずそうにハードウルフが登場した。
「お邪魔でしたかな?」
すこしだけ恥じらうエドリックとエドマの姿を見て、くっくと苦笑しだした。
「わざわざ冷やかしにきたのか?」
やや不満げにいうエドリックに、ハードウルフは申し訳なさそうに否定のしぐさをする。
「いやいや、もうしわけございませぬ。
実は、一つ『旅の安全』を祈ろうと思いましてな」
そういって、二本の立てた指で十字を切るしぐさをしてみせる。
「まぁ!ぜひおねがいするわ!」
エドマはそういって、抱き留めていた旦那の体をハードウルフの前にぐっと差し出す。
「ハードウルフよ、そなたが祈るということは……?」
とエドリックが訪ねる。
「さよう。よく効く呪文詩をご用意いたしました」
とハードウルフが答える。
上層の速い風に流されるように重い雲が流れていく中、ハードウルフが目を閉じ、旅人が使う杖を静かに地面に立てる。
そして静かに呪文詩を唱えだす。
「我はこの杖に身を捧げ
神の監視に委ねる
苦悩に打ち勝つために
痛恨の打撃に対し
過酷な恐怖に対し
恐るべき広大さに対し
あらゆる忌まわしきもの
道行に踏み込んでくる
あらゆる憎むべきものすべてに対し
我はこの疾走せし呪文を唱え
打ち勝つよう この杖を振るい
滑らかに詠唱しつづけよう」*1
ハードウルフの詠唱する声は、ひときわ大きくなり、天上の全能の神にあらゆる災いから守るよう祈る。
キリスト教の12人の聖人と何千もの天使達に見守るように、祝福を与えるように祈りを続ける。
「汝ら全ての魂に光を与えよ
マタイの兜よ
我のものとなれ
マルコの鎖帷子よ
軽く、強き生命に満たされよ
ルカよ
我が剣となれ
鋭利に、鋭く切れよ
ヨハネよ
我が盾となれ
栄光を身にまといし
セラフィムの死に到る槍よ
我が手に」
まるでハードウルフの詠唱にうながされるように、重く垂れ込む雲間からわずかに光が差し、エドリックの頭、体、両腕、足を柔らかく包んでいく。
一陣の風が、エドリックとハードウルフの体に吹き付け、巻きつけた布が船の帆のようにふくらむ。
「我はこの風をつかまえる
うなる海にて
全てを包み込み
あらゆる敵に立ち向かう
我は友に出会う
我が留まることを許される
全能の神の恩恵によって
憎むべき者に対し固く結束する
我の人生を疑い続ける者
確立された
天使の花咲くところへ
天上界の高潔な掌の中で
天界の領域にて
我が留まることを許される限り
ここに留まることが許される限り」
静寂が訪れ、ハードウルフの詠唱が終わった事を告げた。
雲間から光が一筋さしこみ、エドリック達に静かに注がれた。
エドリックは、そのあまりの美しさに呆然と見入る。
ハードウルフは言う。
「あれは『ヤコブの梯子』とよばれるものです。
天井の世界に通じると、聖典に書かれています」
光芒から目を離せないまま、エドリックはハードウルフに問う
「あれも……
あれもお前の術なのか……」
ハードウルフはかぶりをふりつつ、しかし笑顔で次のように言った。
「さあ、それはわかりませぬ。
しかしこれだけはいえますぞ。
これは『良い兆し』であると!」
~次回へ続く~
*1呪文詩は、”Old English Poetry in Facsimile”掲載の現代英語翻版を、著者自ら日本語に翻訳しました
◆解説編
■旅の呪文について
旅の呪文詩は、航海の安全を祈るもの、または人生を航海にみたて人生そのものの前途を祝福する内容と考えられてます。
キリスト教の影響が非常に色濃い内容であり、聖人や天使から武器や装備を受け取る部分が、アングロサクソンの武装的な性格を表すという見方もあります。
多くの学者によって古代ゲルマンの旅の護りの呪文との関連性が指摘される一方で、古代アイルランドのロリカ(胸当て鎧)と呼ばれる厄除けの祈りとの関連性もあるようです。
古代アイルランド語の厄除けの祈り「クロスターノイブルガー・ロリカ」では、有害な影響から旅立つ人を守るため、「マリアのマント」などキリスト教の聖人や霊的な鎧を呼び起こす部分が、今回の旅の呪文と共通します。
旅の道中に危険がつきものだった中世初期に、旅の安全を祈る事は日常的だったと考えられています。
■福音書の四聖人
武装を授けるキリスト教の聖人マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4名は、福音書記者と呼ばれ、4つの福音書のタイトルにもなっています。
これら4つの福音書の内容は、十二使徒やその弟子がイエス・キリストの言行録をまとめたものとされ、現代でのキリスト教でもとても重要な書籍です。
中世初期の聖書の写本は4つの福音書の写本が多く、そのため四人の使途の名前も広く知られていたと思われます。
例えば、装飾の美しさで有名なケルズの書も、4つの福音書の写本です。
■各福音書と天使の紹介
・マタイの福音書 十二使徒の一人マタイが書いたとされている。
・マルコの福音書 十二使徒ペテロから聴いたことを元に、弟子マルコが書いたとされる。
・ルカの福音書 十二使徒ペテロの協力者としてルカが書いたとされている。
・ヨハネの福音書 十二使徒の一人ヨハネが書いたとされている。
・セラフィム 熾天使(してんし)天使の最上級階級。カルデアの神話では稲妻の精とされているため、槍は雷の可能性があります。
■中世の旅について
今日のような交通機関や観光市場が無かったこの時代の旅の種類には、軍事行動と交易と聖地巡礼があったようです。
ローマなど遠方まで巡礼に行けるのは一部の権力者のみでしたが、庶民も身近な聖地に巡礼する事があったとのこと。
例えば、10世紀後半のウィンチェスターにあったオールドミンスター大聖堂の聖スウィザンの聖遺物箱には、体が不自由な者や病人が列をなし、修道士が参拝者のために夜中に何度も讃美歌を歌うはめになったという話が伝わっています。
■中世の移動手段
旅は基本的に自らの足で歩いたり、馬、または船を使っていたようです。
ローマ統治時代の道路を再整備し利用していたようですが道が悪い所も多く、水路の方がはるかに速かったようです。
アングロサクソン人は海岸近くや航行可能な河川沿いに重要な中心地を築くことを好んでいたともいわれています。
例えば7世紀の七王国の一つノーサンブリアで、バンバラからブラッドウェル・オン・シーの修道院までの380マイルを旅をしたとします。
陸路の場合、道路がよほど良い状況という前提で1日あたり15マイル進みます。一方船ですと、帆船だと81マイル/1日、手漕ぎの船だと41マイル/1日と圧倒的に早いです。
結果として、かかる期間は陸路だと25日間、海路だと手漕ぎで8~9日間、帆に風を受けて移動した場合4.5日でつく計算となります。
◇次回予告
隣国ブラートンに少数の兵で向かったエドリック。
隣国との境にある林の中で不審な一団と邂逅する。
果たして何者なのか?!
中世ヨーロッパの生活呪文 第6回「蜂の群れへの呪文詩」
ご期待ください!
◆参考文献・サイト
ウェンディ・デイヴィス/編 鶴島博和/監訳 オックスフォード ブリテン諸島の歴史 3 ヴァイキングからノルマン人へ (慶應義塾大学出版会,2015年)
(カレル・フェリックス・フライエ)Karel Felix Fraaije, Magical Verse from Early Medieval England: The Metrical Charms in Context, English Department University College London,2021,Doctoral thesis (Ph.D)
”Old English Poetry in Facsimile”,Martin Foys, University of Wisconsin-Madiso
https://oepoetryfacsimile.org/
※中世初期イギリスの詩を収集しオープンで共有するオンラインプロジェクト
”Time, Travel and Political Communities: Transportation and Travel Routes in Sixth- and Seventh-century Northumbria”,Lemont DobsonMailto,University of York,2005
https://www.heroicage.org/issues/8/dobson.html
※6-7世紀ノーザンブリアの移動事情についてまとめられた論文
"Travel and communication in Anglo-Saxon England",Stuart Brookes, UCL and University of Durham on 17th March 2018
https://www.berksarch.co.uk/index.php/travel-and-communication-in-anglo-saxon-england/
※アングロ・サクソンの時代に、ローマ帝国が残した道路網を自ら拡張しつつ利用していた痕跡があるとする論文