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中世ヨーロッパの生活呪文

(増補改訂版) 第4回
「九つの薬草の呪文詩」


 テンプラソバ
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◇はじめに
 おはようございます!
 中世ヨーロッパと西洋風ファンタジーが大好きなテンプラソバです。
 中世ヨーロッパの生活に密着した呪文についてのコラム第4回「九つの薬草の呪文詩」を始めます。

 今回は、人の体を癒す究極の呪文詩「九つの薬草の呪文詩」を紹介します!
 紹介する呪文は、中世に書かれた医学書などに記載され現代まで伝わるもので、フィクションではなく実際に使われていた可能性が高い、ある意味「本物」の呪文です!
(ドラマの方は、設定も含めて私がフィクションとして書いたものです)

■ドラマパート前回のあらすじ
 10世紀、中世イングランドのとある地方「ハマートン」にて、牛泥棒事件が発生した。
 領主のエドリック・ハマーは、不思議な力を持つ医師のハードウルフに呪文詩によって、貴重な牛を探すよう助力を求めた。
 ハードウルフの呪文の効果で、容疑者メイソンは逮捕される!
 しかし、犯人を捕らえていた小屋が夜半に火事に!
 更に、焼けたあとには、メイソンではなく牛番のダーシーが昏睡していた!
 そして、怪しげな銀のブローチも見つかる。
 一行は、ハードウルフの治療小屋に、ダーシーを治療すべく運び込んだのだった!

■登場人物
 エドリック・ハマー:ハマートンの領主
 ハードウルフ:ハマートンの司祭にして医師(リーチ)
 エドマ:エドリックの妻。妊娠中で、とても快活で活動的。
 エグビン:ハマー家の家人で、エドリックが信を置く者
 イーナ:ハードウルフを手伝う治療院の従業員の少女
 ウィゴット:牛泥棒の被害にあった農場主
 メイソン:ウィゴットの従兄。牛泥棒の犯人だが、火事に乗じて姿を消す。
 ダーシー:ウィゴットの牛番。
 ダーシーの母:息子の治療を共に手伝う。息子への情が深い

◆第7幕「治療小屋」
■喧騒
 治療小屋の中は満員だった。
 椅子に座って膝の痛みの治療を、ハードウルフから受けていた老婆。
 治療にあたるハードウルフとその手伝いをする少年と少女。そこに運び込まれたダーシー、その母親、エグビン達家人が3人に、エドマ。
 そして様子を見ようと老人たち十数人も無理やり小屋に入ろうと詰め掛けている。

 ダーシーの容態を話すようせっついたり、しっかり治してほしいと頼んだりなど様々な声があちこちから聞こえ混沌とした小屋の中で、ハードウルフが良く通る声をあげる。

「おしずかに!!」

 一瞬喧騒がぴたりと止まる。ハードウルフは間髪いれず続ける。

「みなさん、どうかおしずかに!
 これからまず、ダーシーの手当てをします。
 命が危ないものが最優先といつもいっていますな?
 どうぞわが治療にご協力を!」

 そういって、手伝いをしている少年に薬湯や湿布が入った桶ごと持たせ、外でしかるべき症状の患者にしかるべき簡単な処置をするよう指示をして、野次馬達を外に速やかに追い出した。
 エドマもそれを手伝うと言ってついていく。

「ご婦人、申し訳ないが、こうなってしまった以上治療の続きはまたにしてかまいませんか?」

 ハードウルフが治療中の老婆に愛想よくそうたずねると、治療中だった老婆は笑顔でうなずきつつかまわないと返答した。そして、他の者に手をとってもらいつつ群衆と一緒に外に出ていくのだった。


■診察
 小屋の中には、ハードウルフ、ダーシー、ダーシーの母親、手伝いの少女の4人だけとなった。
 ハードウルフは、ダーシーの母親に診察と治療を手伝ってもらうよう頼む。
 ダーシーの衣服を速やかに剥いで、貴重なろうそくに火をつけ、瞳の様子や体の状態をくまなく観察するハードウルフ。
 幸い火傷はなく、外傷らしきものも見られない。
 火事などで発生する「命を奪う瘴気」を吸い込み過ぎた時に見られる、顔の赤みもない。
 弱くはあるが呼吸は正常だ。
 そしてこの衰弱した様子は、何らかの毒を飲まされた可能性があると、ハードウルフは考えた。

 ダーシーの口にこびりついた何かの液を、木の細い棒で慎重にこそぎ取り色をよく観察する。
 目や口の腫れは何かの薬物によるものとおもわれる、それに対抗するには……

「マッグウィルト、スチューン、それにアトルラーゼ、すべて必要になるな……」
 そうつぶやくと、羊皮紙の本を素早くめくりだす。
 そうして手が止まったページにはこう書かれていた。
 「九つの薬草の呪文詩」と。


◆解説編
■イギリス初期医療に用いられた呪文の分類
 一口に治癒の呪文と言っても、当時考えられていた原因に対して語りかけたり、治癒の助けとなる薬などを鼓舞したり様々な内容があります。
 このような様々な当時の医療呪文について、ペイン(J.F.Payne)という研究者が作成した以下の6つの分類があります。
 またこれらの分類について、分かりやすいよう「〇〇の呪文」というタイトルを私の方でつけています。

 1.「準備の呪文」 薬草の採取と準備の際に唱える呪文
 2.「守護の呪文」 患者に対する祈祷、お守り、魔よけとして身に着けたり、身体の一部に描いたり、唱える呪文
 3.「悪霊退散の呪文」 悪霊を追い払う呪文
 4.「追体験の呪文」 患者と同じ病気を患った伝説上の人物についての話を盛り込んだ呪文
 5.「神聖化の呪文」 植物、動物、鉱物などを、神聖なもの、祈祷の対象とする呪文
 6.「移植の呪文」 動物、物質、流水などに、患者の病気を何らかの儀式を通じて移植させる呪文

 この分類に従うと、前回紹介した様々な治癒の呪文詩がどのような内容なのか、より理解できます。
 第3回で紹介した突然の痛みに対抗する呪文やコブに対抗する呪文は症状に直接語りかけるので「悪霊退散の呪文」と考えられます。
 また、みずぼうそうを治癒する呪文は、薬がどれだけ素晴らしくどのように働くか説明する内容があるので「神聖化の呪文」と考えられるでしょう。
 また、薬のレシピが書いてある部分は「準備の呪文」とも言えそうです。
 それでは、九つの薬草の呪文はどのような分類に該当するでしょうか?
 次の解説をお読みください。
 その前に、ドラマの第二幕です。

◆第8幕「ウォーデン」
■準備
「イーナ! 今から言う薬草を中央の作業台に持ってきてくれ!」
「はい、先生!」

 イーナはハードウルフを手伝う少女の名前だ。
 呪文詩が記載された本を片手にハードウルフは、次々に薬草名を読み上げ少女に指示を伝えだした。

 部屋の中は、天井や机、床は、束にした薬草の乾燥させたもの、摘んでからあまり日がたってないものなど所せましと置いてあり、少女は言われた薬草を迷うことなく次々と取り上げ、カゴにいれていく。

 薬草についての指示が終わると、ハードウルフは今度はダーシーの母親に声をかける。ダーシーの服を完全に脱がして、水で体を清めるようにと。
 ダーシーの母親は、自分よりも一回りも成長した息子の服を手早く剥ぎ取り、水で濡らした布を固くしぼり息子の体をふいていく。

 一方ハードウルフは、戸棚から封をした陶器の容器をいくつか取り出し、机に並べだした。
 容器の中身は、香油である。
 それからハードウルフは、大きな臼とつぶし機を机の中央に設置した。
 指示された薬草を取り終えた少女がカゴをハードウルフの脇に置く。

「ありがとう、イーナ。火も頼む」

 そういってハードウルフは、カゴの中の薬草を選別しだした。
 少女も心得たもので、薬草を煮るための鍋をかけているかまどに火をいれるべくたき木やマキをくべだした。

 ハードウルフは選定した薬草を一つとりあげ、目をとじたままおもむろに呪文詩の詠唱をはじめた。
 薬草にかたりかけるようにささやくように唱える。

「マッグウィルトよ、
 レーイェンメルデで
 汝は何を除き、何を整えたか 思いおこせ。
 汝は世でもっとも古い薬草、ウーナとよばれた。
 汝は三と三十の悪霊にも勝り
 汝は毒にもまた疫病にも勝り、
 汝は国中を脅かす禍難に勝る」*1

 呪文詩の詠唱が終わると「マッグウィルト」を臼に入れ、次に別の薬草を取り上げ、同じように詠唱しだした。

「そして汝(なんじ)ウァイブラード
 諸々の薬草の母よ。
 明白に東方より伝来し、内には頼もしきものよ。
 汝の上で荷車が軋み、汝の上を王妃が駿馬で駆け、
 汝の上で花嫁が泣き、汝の上で牡牛が鼻を鳴らす。
 でも汝は万難にめげずに対し、
 汝は病毒も伝染病も、それに
 国中に蔓延る禍難にも抗する」*1

 詠唱が終わると「ウァイブラード」を臼に入れ、次の薬草の呪文詩の詠唱にとりかかる。
 そして、スチューン、スティゼ、アトルラーゼ、マイズ、ウェルグル、フレイ、フレイヌルと合わせて七つの薬草も臼に入れていく。
 呪文詩の内容は、どのような土地でどのような病魔、毒を体から追い出し国を救ったか、古き天上の神々が、いかにして苦難の果てに知恵を得て、薬草を見つけ人類を救済したか、など。
 まるで神々に見出された英雄たちの戦いの系譜を告げるような内容であった。
 九つの薬草が入った臼をつぶし器でつぶす間も、二度三度と同じ呪文をハードウルフはくりかえす。
 その眼に霊妙な光を宿しつつ一心不乱に薬草を砕いた。

■「この毒を私が除去しよう」
 砕かれた九つの薬草は汁ごと鍋に入れられ、東方伝来の香油と一緒に煮込まれた。
 並行して助手の少女が水、灰、卵白を混ぜ合わせて作った下地に、煮詰めた九つの薬草を注ぎ混ぜ合わせて軟膏を作っていく。
 そして布に均等に塗り湿布を手早くつくっていく。
 湿布を手にしたハードウルフは、ダーシーに近づく。
 ダーシーの母親の目には、鍋からでてきた煙や湯気が部屋に充満し、不思議な模様を形づくるように見えた。
 ダーシーを見据えたハードウルフは、呪文詩の続きを詠唱しだした。

「この九種の薬草は九種の病毒に効く。
 忍んで毒蛇がやって来て、それは人に噛みついた。
 やがてウォーデン九本の栄光の枝を持って来て、
 その毒蛇を打ちまくりその身は九個に裂けたとさ。
 もう蛇がけして奥深くへ入らぬように
 毒とアッペルをそこに備え置いた」*1

 古代の神々の主「ウォーデン」がいかにして病毒を打ち払うか唱えた瞬間、部屋に充満する煙が何か人のような形にまとまっていく。
 ハードウルフは、湿布をダーシーの額に、胸に、腹に貼り付けながら、呪文詩をしめくくる。

「あの九匹の毒蛇の住む渓流を
 知っているのは ただ私だけ
 今や、すべての草は薬草より生まれ
 大洋のすべての塩水をも分解し得る。
 故に汝よこの毒を私が除去しよう」*1

 人の形にまとまりはじめたもやは、枝のようなものを伸ばしてダーシーの体を包んでいく。
 こころなしか、ダーシーの苦悶の表情が安らいできたようにも見える。
 霊験あらたかなる何かを見た気がしたダーシーの母親は、祈るように手を合わせ目をつぶる。
 ハードウルフは、なおも呪文詩を繰り返し、唱え、施術を続けたのだった。

■発覚
 ハードウルフ達の懸命な治療は2日間にわたった。
 その努力のかいもあって「解毒」されたダーシーは目を覚ました。
 ダーシーは、泣き崩れる母の頭をすまなそうな顔をしながらなでていた。

 知らせを聞いたエドリックは、ダーシーの元を訪れ、その母親になぐさめの言葉とダーシーと二人だけで話したい旨を告げた。
 そして彼の母親を家まで送るようエグビンに指示を出した後、治療小屋の中にエドリックは入る。
 傍には、疲れた顔のハードウルフが座っている。

 エドリックが今回の事の顛末についてダーシーに尋ねると、しばらく思いつめた表情だったダーシーは意を決した顔で言う。

「エドリック様、おらは罰を受けてもしかたねえ。でもかーちゃんは、何も関係ねえ! なので助けてやってほしい」

 ダーシーの母については特に疑っていない事を告げると、安心したダーシーは事の次第を話しだした。

 メイソンは、前々からダーシーに話かける事があったようだ。
 ある時メイソンが高揚した顔でダーシーに話をした。
 なんでも自分は従士様にいずれお仕えできるんだと、今より名誉ある地位になれるんだと。
 エドリック様に仕えるのかと聞くと、失笑して「あんなの」ではなくもっとすごい人だとうそぶいていたとのこと。

 人の良いダーシーは、話が今一つのみこめないもののメイソンの喜ぶ様子に、『良かったですね』と愛想の言葉を返すのだった。
 その言葉を気に入ったメイソンは、ダーシーも一緒に「加担」するようにすすめだしたという。
 何のことかと聞くと、この村に騒乱を起こし評判を落とし、より良い統治者がいると噂をひろめるだけだと、恐ろしい事をメイソンは話をしだした。

『そんな! そんなかーちゃんを悲しませることはできねえ!』
 そういって協力を渋ると、メイソンはウィゴットや母の名前をだして脅すような事を言ってきたため協力せざるをえなかったと弁明する。

 そしてもしメイソンが捕らわれた時は助けるようにあらかじめ指示されていた事を思い出し、夜中に小屋にこっそり来たのだと、ダーシーは言う。
 そこには、なぜか縄をほどいて酒らしきものを飲んでいる風のメイソンがいて、彼から勧められるまま酒を飲んだとのこと。
 そして気が付いたら、ハードウルフの治療小屋で寝ていたのだと。
 これがダーシーの語る、事の顛末だった。

 静かな顔で話を聞いていたエドリックは、ダーシーの肩を軽くたたきうなずく。
 そして、メイソンと話をしている時こんなものを見たことはあるかとダーシーにたずね、火事の現場に落ちていた銀のブローチを見せる。

「あっ」と声をあげるダーシー。
 彼が言うには、メイソンはその銀のブローチを腰から下げた革袋に入れ、自慢話をする際はこっそり取り出してみせびらかしていたとのこと。
 思わず立ち上がるエドリックに、ハードウルフは声をかける。

「何やら確信を得た顔をされていますな。そのブローチは『どこの』ものでしょうかな?」

 エドリックは、銀のブローチを見つめながら言った。

「これはブラートンを治める『ブラー家』で好んで使う魚の模様だそうだ。
 この件に、ブラー家が関係しているかもしれぬ……」

 ハードウルフは返す。

「そうであるとして、どうなされますか?」

 ブローチをぎゅっと握ったエドリックは決意した。

「ブラー家に、詳しく聞きにいかねばなるまい」

~次回へ続く~

*1 呪文詩の訳文は、吉見昭徳(著)古英語詩を読む ~ルーン詩からベーオウルフへ~(春風社,2008)より引用しています。


◆解説編
■九つの薬草の呪文詩
 この呪文詩では、名前の通り九つもの薬草が出てきます。
 ドラマでも少しご紹介したように、どのような薬効があり今までどのような活躍をしたのか、まるで人物紹介のごとくその効果を説明する内容となっています。この辺りは、薬草の準備の呪文であり、神聖化の呪文ともいえそうです。

 また呪文詩に出てくる、三や九という数字もアングロ・サクソンでは魔術的な意味がある数字とのことです。
 日本のヤマタノオロチや九尾のキツネなどにも9という数字はあります。洋の東西を問わず、魔術的な数字なのかもしれません。

 呪文の後半では、毒蛇がもたらすさまざまな毒をいかに撃退するかという内容に変わっていきます。
 ここでの毒蛇は、病やケガをもたらす超自然的な存在という意味だそうです。
 九つの薬草は、世のあらゆる人体への災厄を打ち破り撃退する究極の呪文詩と言えそうです。

■九つの薬草
 さて呪文詩の中に登場する九つの薬草名ですが、聞き覚えのない物ばかりだと思われます。そこで、それぞれが何の薬草なのか、以下に簡単に解説いたします。

・マッグウィルトとは、ヨモギです。
 ヨモギは、日本でも血止めの薬草に使われたり、その独特の香りで餅や団子に混ぜて楽しまれています。
 当時ヨモギは魔術との結びつきが強く、古来より厄除けに使われていたそうです。
 熱病、けいれん、分娩の苦痛を和らげる薬草と考えられていました。

・ウァイブラードとは、オオバコです。
 オオバコは、日本でもありふれた植物で、若芽を天ぷらにするとおいしいと言われています。
 当時は、地面に広く葉が広がること、踏まれて育つというイメージから、足に効く薬効があると考えられていました。

・スチューン、スティゼは、正確には何の薬草なのか分からないとのことです。

・アトルラーゼとは、カッコウソウです。
 カッコウソウは、5枚の花弁を持つピンクの花を咲かせる多年草です。
 古来より薬草として珍重され、庭に咲くと魔除けになると信じられていたそうです。解毒、血止め、不眠症の薬、染料として利用されていました。

・マイズはカミツレという説があります。
 カミツレは、カモミールとも呼ばれています。ハーブティーなどにも使われています。当時は、発汗剤、解毒剤として使われていました。

・ウェルグルは、イラクサという説があります。
 イラクサは、トゲが多く、刺されるとかぶれることもあるようです。
 当時イラクサは、北欧神話の雷神トールの草で、火にくべると雷除けになると信じられていました。
 また血清や血止めに利用できると信じられていました。

・フィレは、タチジャコソウです。
 タチジャコソウはジャコウのいい香りがするハーブで、タイムと同一視されることもあるようです。
 当時は、心臓病、神経症、呼吸器系の病気などに効くと信じられていました。

・フイヌルは、ウイキョウです。
 ウィキョウは、フェンネルとも呼ばれるハーブの一種で、食用として古今東西広く親しまれています。
 当時は、肥満、視力回復、魔よけ、解毒などに効くと信じられていました。

■ウォーデンの考察1 ~北欧神話の主神オーディン説~
 呪文の中盤に「ウォーデン」という名前が出てきます。その正体はゲルマン神話(北欧寸話)の主神オーディンだと、一般に考えられています。
 オーディンは様々な知識を蓄えた神です。
 その知識を蓄えるために様々なことをしています。

 神話では、ルーン魔術の知識を得るために、世界樹ユグドラシルに槍に貫かれた状態で9日間つるされていたとあります。
 その際に、医療系のルーン魔術でしばしば扱われる薬草についても知識を得た事が、呪文詩では描かれているのではないかと考えられています。

 また呪文詩の中で毒蛇を引き裂く「九つの栄光の枝」も元は九つのルーン文字だったのではという解釈もあるそうです。
 オーディンの存在が色濃い九つの薬草の呪文詩は、とりわけ古い時代の神話と深いつながりがあるのかもしれませんね。

■ウォーデンの考察2 ~錬金術の神ヘルメス・トリスメギストス説~
 多くの学者によって「九つの薬草の呪文詩」に登場するウォーデンは北欧神話の主神オーディンである説が前述のとおり支持されてきたのですが、それに異説を唱える論考があります。
 ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで呪文詩に関する論文で博士号を取得したカレル・フェリックス・フライエ(以下フライエと略します)は、ウォーデンの正体は、錬金術の神、伝説的な錬金術師ヘルメス・トリスメギストスの俗称ではないかと主張しています。
 論拠として、主なところでいうと以下の3点をあげています
 1.そもそも呪文詩が載っている「ボールドのリーチブック」や「ラクヌンガ」は、医学と薬草学の書であり、ヘルメス神は医学と薬草学に秀でた神であることは、当時のリーチ達にも浸透していたこと
 2.呪文詩を校正する詩は、ラテン語の薬草学に関する文言を踏襲したものであること
 3.ヘルメス・トリスメギストスの、「トリスメギストス」とは「3倍偉大」という意味であり、呪文詩に繰り返しでてくる三という数字にもぴったりと符合する。

 はたして、オーディンなのかヘルメス・トリスメギストスなのか、議論が分かれるところではありますが、いずれにしろ相当強力な神であり、呪文詩にはそれだけ強大なパワーが込められているのかもしれません。

■呪文詩に含まれる呪術の技法
 また、フライエは「九つの薬草の呪文詩」で、「ネームザウバー(名前の魔法)」と呼ばれる技法が使われていると論じています。「ネームザウバー」とは、物体、動物、人間、超自然的な存在に名前を呼びかけ、コントロールする魔術技法です。
 コントロールするとは具体的に、どんなことでしょうか?
 例えばグリム童話の「ルンペルシュティルツヒェン」で妖精が名前を当てられ逃げてしまったエピソードがあげられます。妖精は名前を当てられてしまった事で、退散せざるをえなくなったのです。「九つの薬草の呪文詩」の場合は、各薬草は「ウーナ」や「薬草の母」など様々な形で異なる名前を付与され、病魔にいかに力強く対抗できるかという性質を付与される形で「ネームザウバー」が使われているとのことです。

 魔法における「名前」がもつ意味は、結構深いものがあります。夢枕獏の小説「陰陽師」には、名前を呼ぶことが、ものを縛る呪であるという言葉が出てきますし、アーシュラ・K・ル=グインの「ゲド戦記」においても真の名前は、魔術における核心ともいえる存在といえます。名前を呼ぶ魔法については、機会があれば深く解説してみたいと思います。

◇次回予告
 真実を確かめんと隣国ブラートンに寡兵で向かうエドリック
 できうる限りの備えと祝福を与えるハードウルフ
 みたび呪文詩の力が発揮されるか?!
 中世ヨーロッパの生活呪文 第5回「旅立ちの呪文詩」
 ご期待ください!


◆参考文献
唐沢一友(著)アングロ・サクソン文学史:韻文編 (横浜市立大学叢書―シーガルブックス, 東信社, 2004年)

唐沢一友(著)アングロ・サクソン文学史:散文編 (横浜市立大学叢書―シーガルブックス, 東信社, 2008年)

吉見昭徳(著)古英語詩を読む ~ルーン詩からベーオウルフへ~(春風社,2008年)

(カレル・フェリックス・フライエ)Karel Felix Fraaije, Magical Verse from Early Medieval England: The Metrical Charms in Context, English Department University College London,2021,Doctoral thesis (Ph.D)

ウェンディ・デイヴィス/編 鶴島博和/監訳 オックスフォード ブリテン諸島の歴史 3 ヴァイキングからノルマン人へ(慶應義塾大学出版会,2015年)

夢枕 獏 (著) 陰陽師 (文春文庫 ゆ 2-1,1991) 

アーシュラ・K.ル=グウィン (著) 清水 真砂子 (訳)  影との戦い ゲド戦記 (岩波少年文庫,1976)

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